FC2ブログ

mu-jica

さようなら

この夏はいったいどうしたのか。
ほんとうに、たくさんのひとが亡くなった。
こんなことは今までなかった。
一方的にこちらが知る人も、もっと近い存在の人も、
そのほとんどが、ああ、あの人は逝ったのだ、
と心安らかに想えるような死ではなく
「えっ」と驚いた後に出てくる言葉が何も無いような、突然の死。

「あなたが生まれるとき、あなたは泣き、世界は喜びに沸く。
あなたが死ぬとき、全世界は泣き、あなたは喜びにあふれる。」
とは、チベット仏教の生死観。
私は人の死に遭遇するとき、このことを思ってみる。
これまでは、なんとなくしっくりきていた。
父の死のときも。

けれど、ほんとうにそうだろうか。

「ただいま」
と言って愛する人の待つ家に帰るつもりで生きていたのに逝ってしまったあの人は、
喜びと共にこの世を去ることができたのだろうか。
喜べない死は、この世への執着なのだろうか。

以前ラジオで、とある映画監督が
「ぼくはいつ死んでも後悔しないように毎日を生きてる」みたいなことを言っていたけど、
私はそれを聞いて「何をかっこつけていやがる」と思った。
我ながら青臭くて恥ずかしいけど、
学生の頃は、
生きてる上でのあらゆる行為、仕事や芸術やすべてがどうでもいいように思えて、
そのどうでもいいことをこれから何十年も続けて行かなければならない人生というものを考えたら、
先が長過ぎてくらくらして、
「人生なんてすべてが暇つぶしだ」なんて思っていたけれど、
今の私はといえば、息子がどんなふうに話をするのか聞いてみたいし、
家族みんなでおいしいものを食べて「おいしいね」と言いたいし、
いい音楽を聴いて踊りたいし、美しいものをまだまだたくさん見たい。
生活も仕事も芸術もすべてが等価だということはかわらないけれど、
すべてがくだらないと同時にすべてがかけがえのないもの、と今は思っていて、
そんな私は、今は自分の死を喜ぶことなんてできない。
愛することは執着なのだろうか。

明日死んでも後悔しない生き方ってどんなだ。
明日があるという保証は実はどこにもないけれど、
明日があるという前提のもと、日々の暮らしは続いていく。
でも、だからこそ、暮らしは美しいものなのかもしれない、
とも思うけれど。

谷川俊太郎の「さようなら」という詩。

「よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる」

いろんな人と話を。
生きている私は、亡くなった人たちの思い出もたくさん話そう。
生きてることを、忘れないように。
  1. 2009/09/04(金) 09:53:10|
  2. 文月
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<曼珠沙華の頃 | ホーム | 昨日のは>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://bihuu.blog29.fc2.com/tb.php/157-7ae3a1cc
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)